今回は科学ライフをテーマに紹介します。
今まで紹介したテーマと趣向が変わりますが、地元浜松では、来年の大河ドラマの
主人公が徳川家康という事で、各地で家康にまつわる講演やイベントが行われて
おります。
浜松博物館でも「三方ヶ原の戦いと家康伝承」をテーマに展示と講演会が開かれ
ております。
その博物館の学芸員のご講演によると、従来は、武田軍は、信濃から北遠、更に
南進して遠江に進軍したといわれますが、近年の研究では駿河から遠江へ西軍する
進軍ルートを通ったという新説が提唱されているといいます。
そして、特別展を拝見して興味を持った展示物について紹介します。
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武田軍本体の進軍ルートについて
浜松市博物館では、10月より特別展として「三方ヶ原の戦いと家康伝承」が
開かれております。
その特別展に関する講演を学芸員よりお聞きしまして、印象に残ったのは
近年の研究により、武田軍の進軍ルートに新設が出ている
との事でした。
武田軍の進軍ルートについては、これまで武田信玄本隊が信濃から北遠に入って
南進し、山県昌景の別動隊が信濃から三河に入り、そこから遠江に入り本体と
合流するというルートが通説だったのですが、近年の研究では、武田信玄本隊が
駿河から遠江に入り、西進し、山県昌景等の別動隊が信濃から三河に入り、
そこから遠江に入るルートが提起されているようです。
西進ルートの根拠
この新説となる根拠が「当代記」と武田信玄により書かれた書状だという。
「当代記」には元亀三年(1572年)十月条に、武田信玄が遠州に発向して、
高天神表を通り見付(磐田方面の地名)へ進んでいったとの記載がある
という。
同年の十月二十一日付の武田信玄書状には、高天神城主(掛川方面)
小笠原氏助(推定)が降伏を申し出ている記述があり、これより
このころ高天神城付近に武田軍本体がいたと考えられるという。
また、武田信玄の書状に三ケ年の欝憤(うっぷん)という書状があり
元亀元年(1570年)に徳川と武田の宿敵になる上杉が同盟締結したり
徳川家康が懸川城(現在の掛川)を攻め、籠った今川氏真を北条方に
逃したことへの欝憤を記した書状があるという。
確かに大軍が移動するには、多分当時でも信濃から南下するよりも
東海道沿いに進行した方が、大軍が移動するには便利なように
考えてしまいますが、読者の皆様はこの新説について如何でしょうか。
今回の特別展示展には、武田信玄の書状が展示されております。
参考文献及び引用文献
三方ヶ原の戦いと浜松 第二章より
第7回浜松市博物館ボランテイア講座 三方ヶ原の戦いと家康伝承
特別展の展示資料の紹介
特別展の展示資料として印象に残ったものを幾つかお話します。
孫氏の旗
「風林火山」の旗ともいわれ、濃青の生地に金色の文字で「疾如風 徐如林
侵掠如火 不動如山」と書かれております。
武田信玄が中国の兵法書「孫氏」より取ったといわれます。
この旗は、武田信玄のドラマ等で一度は見た事があるのではないでしょうか。
赤ムカデの旗
武田信玄の使番が用いた旗です。
こちらも信玄のドラマでしばしば見られた旗です。
使番とは、伝令の役で、大将が発する命令を前線に散って各部隊に伝える役目で
戦場を駆け抜けるときにそれとわかるように小ぶりの旗を背負っており、その
デザインになる。ムカデは毘沙門天の使番からの由来といいます。
御旗(みはた)・盾無(たてなし)の鎧(よろい)
御旗・盾無の鎧の、御旗は、日の丸の旗、盾無は鎧の事である。
武田氏の祖先新羅三郎義光の盾で、武田家の御旗であり、家宝になるという
武田氏の家中で神格視され、御旗楯無に対して「御旗楯無も御照覧あれ」と
誓い出陣したといいます。
この鎧と上記エピソードも高田信玄のドラマでしばしば登場します。
徳川家康三方ヶ原戦役画像
三方ヶ原の戦いの後、敗戦した自身を戒めるために書かせた自画像という事で
有名な絵です。
しかし、本図に三方ヶ原の図とする箱書や目録は確認されず、後世に書かれた
ものではないかという意見もあるといいます。
浜松市博物館の特別展示「三方ヶ原の戦いと家康伝承」は、来月12月4日まで
開催されております。
お近くでご興味がありましたらぜひ、来館して見てください。
関連記事リンク
まとめ
今回は、科学ライフをテーマに今までと趣向の異なるテーマを
ブログ紹介しました。
地元の浜松では、来年の大河ドラマの主人公が若い時代の
徳川家康との事で、各地でイベントや講演会が開催されて
おります。
今回は、浜松博物館で開催されている三方ヶ原の合戦を
テーマにした特別展が開催されそれに関連した新説が提起、
紹介されております。
皆様はどうお考えでしょうか。
歴史好きな人にはおもしろいテーマですね。
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